開運寺の紹介
東光山開運寺は、臨済宗( 禅宗の一派) で妙心寺派に属します。
以前の名を東霊山医王寺といいました。もと五山派に属し、久留米市神代町、安国寺(南禅寺派)の末寺でした。
医王寺時代、天桂和尚・天甫和尚と2代続いたのち、江戸時代の延宝年間(1673〜1680)
争いに巻き込まれて寺はとりつぶされました。その後、柳川市鍛冶屋町の天叟寺(柳川立花藩初代、立花宗茂
公が自分の両親の菩提を弔うために建てた寺)、第3 代萬瑛和尚は、英山公( 立花藩 4 代藩主鑑虎〈あきとら〉
公) に医王寺再興を願いで、山門郡筑籠村の開運寺をこの地に移しました。庚申山の庚申堂を当寺の鎮守とし、
寺領1 町8 反英山公の寄付とあります。『旧柳川藩史より』抜粋
以前の名を東霊山医王寺といいました。もと五山派に属し、久留米市神代町、安国寺(南禅寺派)の末寺でした。
医王寺時代、天桂和尚・天甫和尚と2代続いたのち、江戸時代の延宝年間(1673〜1680)
争いに巻き込まれて寺はとりつぶされました。その後、柳川市鍛冶屋町の天叟寺(柳川立花藩初代、立花宗茂
公が自分の両親の菩提を弔うために建てた寺)、第3 代萬瑛和尚は、英山公( 立花藩 4 代藩主鑑虎〈あきとら〉
公) に医王寺再興を願いで、山門郡筑籠村の開運寺をこの地に移しました。庚申山の庚申堂を当寺の鎮守とし、
寺領1 町8 反英山公の寄付とあります。『旧柳川藩史より』抜粋
開運寺の宝物
![開運寺の宝物](image/intro01.jpg)
裏 銘 趺 坐
奉鋳造 羅漢尊像一体 右意旨(わけ・おもむき)者 為自利利他成正覚也願主 大明国蘇州 産陸氏 元應(元應は横書き)一官 承應二年(一六五三) 癸巳二月吉日
鋳工 赤星八左衛門 長崎光雲禅寺住持僧 松雲代 勧進道俗 融玄祖禅 渋谷又坐
衛門 西半坐衛門 刻銘 となっていまして、長崎光雲寺より伝来したものです。
喚 鐘
![喚鐘](image/intro02.jpg)
とあります。銘曰として 十方檀越 積一作金 鐘鑄願信 財宝盈進 世界浄致 寺門長斟 耳根
冥福 発菩提心 宝暦九巳卯天 十二月吉日 現住現桂 施主檀中 村中 肥前佐嘉長瀬町
谷口吉三作とあります。
地蔵菩薩納経塔
![地蔵菩薩納経塔](image/intro03.jpg)
この年、8 月16 日大風があり大飢饉となり幕府より1万両を借りています。
翌享保19 年は5.6 月に大洪水があり、領内の飢餓民5 万4 千人となり、餓死者123 人、
死馬3 千頭であったといわれます。そこで、幕府より米15800 石を借り各地に炊き出し小屋を設けたと
あります。この年間に死者の供養のたにめお地蔵様が多く建立されました。
当山の「地蔵菩薩納経塔」は、「享保18 年、立花志摩という方の奥方が夢に地蔵菩薩が現れました。
そこで興源院殿(立花第6 代貞俶(さだよし)公)は、経文を書写されたり念仏を唱えたりして、 領内の平穏無事、武運長久、子孫繁栄を祈られました。
そして、当山におきまして17 日間祈祷が行われました。
寛政3 年(1791)には、8 代鑑通(あきみち)公は、遺跡を懐かしみ、霊験のあったことを心から尊敬され、
「地蔵菩薩納経塔」を建立し永代の幸福を祈られました。
庚 申 塔
![庚申塔](image/intro04.jpg)
慶安5 年の記銘のものとしては、筑後地方では2 番目に古い者と推定されています。
もと庚申山といっていた山の頂上にあったものを、 昭和59 年のキウイフルーツ生産団地造成のために境内に移設したものです。
庚申とは、庚申( かのえさる) に当る日のことで、中国の道教思想ではこの日の夜、 人が寝たあと三尸( さんし)と呼ばれる虫が体内から抜け出し、天帝に当人の罪過を上告するといわれていました。
そこで、それを防ぐため、庚申の夜は身を慎んで徹夜するという信仰がありました。
境内の景色
![庚申塔](image/intro-siki01.jpg)
純白のしゃくなげ
![庚申塔](image/intro-siki02.jpg)
お寺だから真っ白がいいだろということで、九州各地を探し求められ丹誠込めて育てられたものです。
ピンクの花は結構多いのですが、筑紫石楠花で真っ白というのは珍しいと思います。